恥ずかしさってどういうときに感じますか?
・本来であれば当然知っているべきことを知らないとき
・人前に立つとき
・発表するとき
・ズボンのチャックがあいていたとき
・みんなが自分のことを見ているとき
・まちなかでころんだとき
・静かなところで音付きのおならがでたこと
………
まだまだたくさん出てくると思います。
今、思い浮かんだ恥ずかしさって、思い込み的なところってないですか?
親や周囲の人たちから「こうでなければならない」と刷り込まれてないですかね?
ぶっちゃけ、
気にするほど周りの人は自分のことをそもそも見ていないです。
うまくいかなかったら、次からうまくいくようにしたらいいし、
間違ったら、謝ればいい。
恥ずかしいから何もしないではなく、
そこからどう立ち向かっていき、克服していくかという前向きな姿勢に惹かれます。
恋愛で、女性が恥じらう姿にキュンとなる世の男性は多いと思いますが、
これはまた別の話です。
恋愛以外での話です。
恥ずかしさも何度も経験することで、いつの間にか不思議と慣れてきます。
その過程がたしかに耐えれないという方は再度思い出してください。
気にするほど周りの人は自分のことをそもそも見ていない
昨日できなかったことが、今日できるようになると嬉しいですし
できないことができるようになると嬉しい。
このできることが増えると幸せを感じることが増えます。
恥ずかしさをクリアすることで幸せな気持ちになることが多くなると思えば、
意外と自分が今まで思っていた恥ずかしさもヘッチャラではないでしょうか???
恥ずかしさ=自分ができていないこと
自分ができていないこと=成長の余地があること
成長の余地があること=できれば幸せを感じることができる
みたいなカンジです。
まとめます。
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そもそも恥ずかしさって思い込み的なところがある
気にするほど周りの人は自分のことをそもそも見ていない
恥ずかしさをクリアした先には幸せがある
中学生のころサッカーの試合で、私がPKを外して負けたことがありました。
悔して泣いた覚えがありますが、
そのときにチームメイトから「お前がPKを外したから負けたわけじゃない。
そんなに影響力強くないし」的なこと言われました。
慰めてくれているのか?それともけなしているのか?(笑)
PKってキッカーは決めて当然、外すと恥ずかしい的なところがあります。
外すと恥ずかしいと思って、
蹴ったボールが枠を外れるということを経験して実感しました。
『あっ!緊張して力が発揮できないと
周りの人を悲しませてしまうし、自分も悔しい思いをする』
何かそこからあまり人の目が気にならなくなってきたような気がしてます。
とりあえず、今回の記事で伝えたいことは
気にするほど周りの人は自分のことをそもそも見ていない
ここにつきます。
それでは、また!
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